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2007年4月22日 (日)

社会的文化装置としての放送

417日(火)、14時過ぎ、赤坂のATP事務所で工藤知事長、稲垣事務局長と懇談。ATPの現在の主要問題店について聞き、資料をいただく。雨が降ってきたのでタクシーで帰宅。

418日(水)、14時テレビマンユニオンで、BPOの五味氏、明峯氏らと会う。BPOの新委員会について。終了後、ユニオンのデスクにいた今野勉としばし雑談。16時朝日新聞岩本記者と表参道でコーヒー。BPOの話も聞かれたが、いまきいた話を喋るわけにもいかず、「非常時の対応よりも、普段の活動が大切」などと話す。「放送」を支えるのは、もはや放送事業者だけの時代ではない。製作事業者も流通事業者も、あるいはこれまで受け手としか位置づけられてこなかった「視聴者」(なんという曖昧かつ馬鹿にしたことばであろうか)がさまざまなかたちで多様な方法で参加し支えるように変わってきた。「あるある」問題は科学者も放送に参加し支えるひとりであること、そのねじれた現実を顕にしたケースであり、生命保険業界も似た問題であろう。など「時代の予兆」について話す。

 青山ブックセンターで本を買い帰宅して読み始める。メルロ・ポンティ「見えるものと見えないもの」、J.D.ボルダーほか「メディアは透明になるべきか」、東大駒場講義録「知の遠近法」、高橋世織編「映画と写真は都市をどう描いたか」の4冊。

419日(木)、1540分、テレビマンユニオンで、「選択」の恵志編集長の取材を受ける。巻頭インタビューとのこと。テーマは「報道機関としてのテレビの現状について」だが、私自身はテレビは「報道機関」ではない、報道の機能も含めた社会的な文化装置と思っている。ということから出発、長い時間喋ったが、どうまとまるやら。終了後、近所の日本そば屋で遅い昼食。

421日(土)、昨日、今日と読書で過ごす。夕方、息子の高志がきて近所の焼肉屋で久々の夕食。弁護士になって3年目、早いものだ。近況を語り合う。

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2007年4月16日 (月)

「週刊フジテレビ批評」で音氏と対談

48日 夕方、近くの小学校へ行き、都知事と都議の

世田谷区

補選の投票。反石原の候補のうち、当選に一番近い人に入れたいと思っていたのだが、結果論で言えば誰に入れても同じだった。石原慎太郎の圧勝。10万票の差。大衆の怖さを改めて思う。

49日  15時からフジテレビの「週刊フジテレビ批評」のスタッフと打ち合わせ。音さんとの対談を頼まれていた。テレビマンユニオンの応接室へ、向坂、武田両キャスターをはじめディレクター、プロデューサーら5人。内容の打ち合わせ。

410日 1630分から放送人の会の「07放送人グランプリ」の選考委員会。千代田放送会館第三会議室で開催。会員からノミネートされた候補者は約40名。今年度の選考委員は、石井彰、河野尚行、中村芙美子、久野浩平、松本修の各氏、計5人全員出席して議論した。発表は27日の予定なので、議論の内容はまだ書けないが、ほぼ順当な結論だったと思う。19時過ぎ予定通り終了。

411  19時からテレビマンユニオンの新人選考プロジェクトの総括・打ちあげ。今年は「あるある」調査委と重なってしまい、結果的に中途半端な参加となってしまったが、お詫びをかねて出席、歓談に加わった。

412日 午後、東京国際大学へ行く。研究室の残りの私物を宅急便で自宅へ。途中、「地方の時代」映像祭事務局の金井さんと「まとめ」パンフの打ちあわせ。夕方、整理完了。庶務へ鍵を返して、この大学との関係を閉じた。専任教員として4年、非常勤講師として1年、計5年間もお世話になったことになる。開放感が強いのは何故だろうか。駅までぶらぶら歩いて帰る。

413日 1230分、迎えの車でフジテレビへ。音さんと簡単な打ち合わせの後スタジオ収録。スタジオには放送人の会の山田良明さんも顔をみせてくれた。14日早朝の放送。

 

414日 朝5時に起きて放送をチェック。終了後、再び寝床へ寝なおす。疲れがたまっていたせいか、開放感のせいか、結局一日中寝てしまぅた。

415日 午後、気を取り直してトゥデイ&トゥモロウの事務所へ。久し振りだったので、郵便物が溜まっていた。資料の整理を21時過ぎまで。

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2007年4月 7日 (土)

「あるある」と「NHK-ETV問題」

4月7日、10時からテレビマンユニオンのメンバー総会にほぼ1年ぶりに出席。白井社長からの依頼で「あるある」問題についての報告を約1時間する。「報告書」解説のいわばテレビマンユニオン用ヴァージョンである。1330分終了。近所の蕎麦屋で昼食。同じテレビマンユニオンの部屋を借りて1430分から「放送人の会」の勉強会。坂上香ディレクターを迎えて、話を聞く会。石井清司さんの骨折りで実現した。NHKの「ETV2001」問題の中心にいた人から生々しい体験談を聞く催しだ。今野勉、TBSの金平、露木茂、久野浩平、工藤英博氏ら会員、ゲストの参加多数、書ききれないほど。坂上さんの話は少女時代から現在に及び、面白かった。終盤、さまざまな発言が飛び交い、まあまあ成功であった。終了後、近所の酒場で恒例の乾杯、坂上さんを囲んで、またまた話がはずんだ。

 実は、NHK-ETV問題の判決文は、「あるある」調査委員会でも全員に配布され議論した。「期待権」の是非は報道されたが、局の編成権が報道(制作)現場の自由を犯してはならないというと指摘した肝心の点は多くの新聞報道では見逃されている。そこで、「あるある」の報告書はコンブライアンスの重要性を指摘すると共に、経営的なチェックが現場の内部的自由を侵すものであってはならないと明記した。これも、多くの新聞記者が見逃しているところだ。

 今日の話の中で坂上さんはその点を見事に指摘した。坂上さんは「あるある」のことは知らなかったのだが、NHK問題の判決文のその部分は見逃さなかったのだ。さすが慧眼。

 「NHK問題」と「あるある問題」は水面下でつながっていたのである。

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2007年4月 5日 (木)

INGの「理念」

4月4日、16時からテレビマンユニオンの新人研修。表参道駅を降りたらものすごい雷雨、強風で傘もさせないほど。しばし往生したが、びしょぬれになりながらどうにか定刻に到着。約2時間余、喋る。テーマは「テレビマンユニオンの創立の理念」。

 1970年2月25日(創立日)の朝日新聞夕刊に私が書いた「新しい出発~私たちのテレビマンユニオン」と、1996年の「世界」9月号「TBS問題検証特集」に書いた「放送人は何処へ行ったのか?」のコピーを配布。後者のTBSを関西テレビに置き換えても成立するかのようだ。テレビマンの意識はあまり変わっていないのかもしれない。

そういえば「放送人の会」設立は翌年97年の12月だった。牛山純一さんらと語り合った日々だった。

 「理念」とは,干からびて存在するものではない。他者との交流によって生じる生き生きとした動きがあるものである。つまり、テレビマンユニオンは固有名詞ではなく、常に動詞、しかもING、つまり現在進行形の存在でなければならない、という話をした。「自立」と「自律」にからめて「明日の自分をつくるのは自分しかない」とも。

 さらに、社会とのつながりにおいては、一企業の理念はドメスティックなナショナリズムに過ぎないこと、テレビマンユニオンの理念よりもテレビにかかわる個人の理念が重要と、武満徹氏の音楽観から私が学んだものを引用しつつ話をする。自分の軌跡のなかからいくつかの転換点を話すだけで時間がきてしまった。終了後、白井社長を部屋に訪ねて、しばし雑談。渋谷までぶらぶら散歩、東急で夕食を仕入れてバスで帰宅。

4月5日、8時半ごろ、大学から送った宅急便がどっと到着、整理に追われる。同時に関西テレビから検証番組のDVDも到着。コーヒーを沸かししばし休憩してから番組を見る。後半で感じたままであった。ディレクター本人の顔隠し映像にやや違和感が残った。早起きのおかげでまだ午前中。これから出かけ、19時に青山でテレビマンユニオンの新人選考プロジェクト打ち上げに参加する予定だ。

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2007年4月 4日 (水)

ブログ1周年!

3月30日、17時から放送人の会事務所で放談会。今野勉、大山勝美、北村克史、松尾羊一、伊藤雅浩、露木茂などの面々、それに村木。夕食をとりながあるある」問題について3時間ほど遠慮のない本音の話が飛び交った。

3月31日、朝10時からテレビマンユニオンの最終面接に参加。候補者は5人にしぼられ、代表団の決断にゆだねることに。建築科と生命科学の二人の大学院生など、ユニークな顔ぶれとなった。

4月1日、ブログ開始から1周年。アッと言う間の1年であった。単なる備忘録のつもりであったが、読んでいただいている皆様には感謝、感謝。読みましたと声をかけられることも多くなった。

夕方から出かけて、川越プリンスホテルに宿泊。ひさしぶりに、くつろいだ夜。ひとりの時間を過ごしブログ一周年をささやかに祝った。

4月2日、ホテルでおかゆの朝食後、午前中から東京国際大学へ行き、研究室の荷物整理。この部屋に5年間お世話になった。書籍やテープ、「地方の時代」映像祭の資料など多くのダンボールを宅急便で自宅へ送る。残りの書類などは破棄。4年分の会議録や成績資料などそのまま捨てる訳にもいかず、手動シュレッダーで時間がかかり、手がくたびれた。

モンゴル研修滞留から戻った引田教授と偶然会う。久し振りだった。引田氏は私がこの大学に来た時の副学長、その後学部長を勤め、「地方の時代」映像祭の牽引車のひとりだった。懐かしい再会。モンゴルの移住の民の空間論、美術論の体験談が面白く、ついつい長話になってしまった。あわてて平山学部長を訪ね、「地方の時代」総集編の制作打ち合わせ。来週再会を約して終える。資料整理は結局夜までかかってしまい、なお終わらず。12日に持ち越し、タクシーで帰宅。遅い夕食、BSで、フランスの制作会社がつくったカストロのドキュメンタリー第1回を見る。

4月3日、15時、オーマイニュースの平野氏とテレビマンユニオンで会う。「あるある」問題の取材。こちらはオーマイニュースの現状について聞く。「あるある」の基本的な視点について語り、2時間を越えた。

 関西テレビの取締役会で千草社長の退任が決まった。代表権のない取締役となり、事実上の降格、「再生委員会」の担当になるらしい。退任すべきではないかと言わせたい新聞社からの電話あり。「われわれは経営者の責任をきびしく追求したが、どう責任をとるかは自分で決めること。再生の責任者となるのは選択としてあり得ることだ」と言った。「問題は再生策がうまくいくかどうかだ」とも。人事なんかよりもっと大きな目を見開いてほしいという思いを込めたつもりだが、新聞記者にはまったく通じなかったようだ。

19時30分、新宿のオテル・ドゥ・ミクニで調査委員会の打ち上げ。会費3万円、小委員会委員は1万円。大勢の弁護士さんたちが集まった。最年長者ということで、熊崎委員長の挨拶の後、乾杯の音頭をとる。皆さんに感謝。全員の一言スピーチで盛り上がる。来年の1月23日、発表1周年の日にみんなで再会しようと決めて散会。

終了後、急いで帰宅したが22時からの検証番組放送には間に合わず、途中から見て、改めて録画で見ることに。印象としては、よくまとまっているが、やはり自社制作の壁は壊せなかったようだ。社員のアンケートのなかにかすかに漂っていた個人個人の思いに焦点をあてないと、パターンになってしまうのは避けられないし、胸に響かない。

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