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2007年1月11日 (木)

主観・中庸・明晰

1月9日、今日から大学の授業再開。といっても1週間だけですぐ後期試験になるから授業は1回だけとなる。

 今日は「総合学習」の最終回。山口放送制作の「ふたりの桃源郷」を見る。04年度の「地方の時代」映像祭の入賞作品だ。電気も水道もない山奥の小屋で暮らす老夫婦を13年にわたって取材した。人間の幸せとはなにか?をしみじみ感じさせる秀作である。この年、学生たちがベストワンに選んだのはこの作品だった。

 大学院生の修士論文の指導ふたつ、どちらもアジアからの留学生だが、こちらは極めて難しい。今週末の提出だからほとんど書き直す時間がない。ただ嘆息するのみ。

1月10日、「メディア環境論」と大学院の授業。「ダーウィンの悪夢」と「エンロン」について喋っているうちに時間となった。研究室の整理をしてから帰途につく。夕食は久し振りに豪徳寺の寿司屋へ寄った。12日に森達也氏との対談があるのを思い出し、帰宅して森氏から送ってもらった「ドキュメンタリーは嘘をつく」を読む。ふと気がついたら午前4時を過ぎていた。あわてて本を閉じてベッドへもぐりこむ。

1月11日、所沢の日大芸術学部で「テレビ論」の授業。近代ジャーナリズムが生み出した報道理念「客観、中立、公正」が崩壊したいま、<報道>の規範を何に求めるか、について私見を述べる。

第一、   人に伝えるためには<表現>しなければならない。文字であれ、言葉で

あれ、映像であれ、表現のない伝達はありえない。表現は極めて<私的なもの>

である。100人いれば100通りの<表現>がある。<私性そのもの>といっ

ていい。つまり、「客観報道」とはたてまえにすぎない。神の視点というありえ

ない幻想を拠点にするナンセンス。主観報道こそが「報道」でなければならな

い。「私はこう見た、こう考える」を抜きにした報道はありえないのだ。

第二の「中立」。森達也が指摘しているように、中立を決めるためには両端の位置を測定しなければなるまい。だれが、どうやって測定できるのか?両論併記の無責任さ。Aの反対はBとは限らない、CかもしれないしD…かもしれない。世界のすべてのものごとが単純な二者択一で語られるとは限らない。むしろ逆だ。

私は「中立」ではなく、「中庸」を提起する。

アリストテレスは、極大と極小とのあいだに理性的な中間点を見つけたならば、それは次元を超えると「徳論」で述べている。アリスとテレスの思想にとって「中庸」は中核的な概念であった。「勇気」という言葉による概念は、「怯懦」と「粗暴」の中間である。しかし、「勇気」は「怯懦」「粗暴」とはまったく別次元の領域にある。このようなものを「中庸」というのである。

第三の「公正」に代わるものとしては「明晰」を提示したい。

途中を省略するが、「客観、中立、公正」に変わる新しい報道の理念は、「主観、中庸、明晰」なのではないか。

 帰路、朝食にご飯を炊いたのを思い出し、近所のお惣菜屋でおかずを買って帰る。ぶり大根、とりレバー煮付け、モツ煮込み、かぼちゃ甘辛煮、ほうれん草ごま和え、野菜サラダ、6品少しづつに豆腐の味噌汁、豪華にして簡易な夕食。786円、昨夜の十分の一の値段であった。テレビをやめて読書、永井均「西田幾多郎、<絶対無>とは何か」を読む。これこそ「明晰な思考」と呼ぶべきものだろう。「場所の哲学」についての極めてわかりやすい解説書だった。

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