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2006年11月30日 (木)

実相寺昭雄くん逝去。

11月30日、昨日、実相寺昭雄が死んだ。胃ガンだった。去年ぐらいから顔色が悪く、心配していたが、思いのほか早く、病魔が進行していたらしい。TBS同期入社の畏友だった。先月だったか、お見舞いへのお礼のハガキをもらった。退院近しと感じさせたが、それが最後となろうとは。

映像の魔術師のように溢れる才能がいつもキラキラしていた。dAという同人誌を新入社員でつくり、そこにいつも実相寺の軽妙なシナリオがあった。明日の通夜、明後日の葬儀に出席する。高橋一郎から場所の連絡あり。弔花を贈った。

15時、東京国際大学で「地方の時代」映像祭の企画委員会に出席。10月の総括と決算の下打ち合わせ、来年度の準備の進行中間報告をする。終了後、NHKの杉さんとコーヒーのつもりがビール一杯となった。会議で言えない部分を討議して散会。

 六本木へ出て鶴橋康夫の映画「愛の流刑地」の試写会へ行くつもりだったが、時間が間に合わずスキップ。明日から12月だ。スーパーで豆腐を買い、夕食の味噌汁をつくった。

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2006年11月27日 (月)

金沢・西田記念哲学館

11月24日、金沢から七尾線で宇野気へ、駅から歩いて15分ほど、小高い丘の上に立つ「西田記念哲学館」へ行く。宇野気村(現かほく市)は西田幾多郎の生地である。西田幾多郎と鈴木大拙の二人は、肝胆相照らす親友だった。共に20世紀の精神界にそそり立つ巨人である。世界に最もよく知られた二人の日本人だ。

大拙は授業料の滞納で、西田は成績優秀だが教師に反逆して素行不良と判定され、共に旧制四高を退学。明治時代に整備された学問エリート体系から外れた。大拙は、南方熊楠同様、海外へ渡り独学で世界的な業績を残し、西田は東京帝大で学ぶも高校卒の資格がないため「予科」扱いで就職もままならず、卒業後一時は七尾の中学で教えた。ようやく四高の講師になれたのは明治29年であった。32年教授へ。42年、学習院へ移るまでの約10年、四高教授であった。

この時、私の祖父が四高教授で、同僚だった。西田の金沢時代の日記を読むと、祖父がしばしば登場する。相当親しかったらしい。祖父が直接私に話すことはなかったが、後年に父からよく聞かされていた。そんな訳で十年ぐらい前から、西田と大拙の著書を少しづつではあるが読み始めている。いずれ「ふたりの日本人」のドキュメンタリーをつくりたいと思い始めたところだ。

哲学館は安藤忠雄の設計、小ぶりながら瀟洒な建物である。ただ、最上階の展望台のメインの2方向からは海が見えない。海は裏側、エレベーターの前の方向である。西田は、毎日のように海を見つめていたはずだが……。2階のカフェの正面に排気塔が景観を邪魔しているなど、この設計には疑問が多い。しかし、哲学の名前をつけたミュージアムは世界でも珍しい。展示はやや寂しいが、哲学の展示という難しい課題に果敢に挑戦した面白い工夫も見られた。特に、昭和15年、西田70歳夕時の対談テープ「創造への道」が聞けるのは抜群。全体主義の恐ろしさを語っている。

暮れの階段状アプローチや思索の道などで眼下に宇野気の町を見ながらしばし逍遥。気分だけは豊かな時間を過ごした、駅の反対側には京都から移した書斎や生家もある。ふたたび七尾線の鈍行に乗り、館で見つけた「思想のレクイエム」を読むうちに金沢駅へ着いた。

11月25日、午前中に旧四高の赤レンガの建物が保存されている「石川近代文学館」と、話題の「21世紀美術館」へ行く。近代文学館の旧四高関連展示のなかに、遂にわが祖父と西田幾多郎が一緒に写っている写真を発見した。明治後期の教員室である。10名ほどの人物ひとりひとりに説明があり、西田の隣に祖父・村木惟夫の名前も明記されていた。

 その教官室の背景の壁に古い柱時計が映っているが、その時計の実物がなんと保存されていた。しかも写真の隣に。私はしばし呆然と佇んだ。まるで、写真から飛び出してきたような古時計に強い歴史のアクチュアリティを感じた。

 21世紀美術館は空間設計が見事だ。魯山人展を見て、13時から地場産業振興センターホールで始まった「北陸制作者フォーラム」へ出席。ミニ番組コンテストの審査委員を務める。参加は、石川、富山、福井、新潟、長野の5県からテレビラジオ合わせて23番組。5分以内とはいえ、プレゼンテーション、質疑応答があるので4時間を越える。かなりのハードワークである。

 全体としては制作者が何をしたかったのかわからないものが多く、刺激的な作品は残念ながらなかった。私のベストワンは、NHK新潟の「磨きの技を売りこめ」、結果として3人の審査委員の合計点で最多得点、グランプリに輝いた。ほかに石川テレビの「親子で酪農」。富山テレビの「真夏の夜の夢を貸し切り」、北日本放送の「土器づくりと野菜づくりの収穫」、福井放送の「高須城物語」などの出来が良かった。懇親パーティで発表と贈賞、多くの若手制作者と会った。

11月26日、10時から北陸制作者フォーラム第2日に出席。午前中は「水曜どうでしょう」の藤村忠寿プロデューサー、嬉野雅道ディレクター。地域局唯一の人気番組誕生と成功の裏話を、長野朝日放送の金子アナの巧みな引き出しもあって刺激的あるいは挑発的な時間であった。

 午後は、朝日放送の石高健次氏、フジテレビの横山隆晴氏、NHKの佐藤稔彦氏、3氏による体験的ドキュメンタリー論。司会は石川テレビの赤井朱美氏。

拉致問題に最初に取り組んだテレビジャーナリスト石高氏と、「桜の花の咲く頃に」で第一回放送文化大賞を獲得、ドキュメンタリーの概念にこだわらず面白さを追求する横山氏、対照的な2人の話が意外に噛み合って、会場の若い制作者たちを圧倒した感。

「ローカルのチカラ」のテーマで開催されたこのフォーラムは意義深い試みで、成功だったと思うが、終了後、挨拶もそこそこに大急ぎ、タクシーで小松空港へ。飛行機は満席だった。放送文化基金の成田専務理事らとビールで乾杯して機内へ。

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2006年11月22日 (水)

鶴見和子さんを偲ぶ会

11月17日、事務所のコピー機修理で13時、参宮橋へ。15時30分から京橋で映画試写会。足立正生脚本・監督「テロリスト幽閉者」110分。ダッカ空港乱射事件の日本赤軍、岡本公三をモデルにした劇映画、田口トモロヲ主演。暗く重い体験は伝わるが、熱演すればするほどアクチュアリティが遠のくようにも思われた。しかし、話題を呼ぶ作品になるだろう。明春にユーロスペースで公開されるとのこと。

 

11月18日、スタジオジブリ機関誌「熱風」の原稿書き。ようやく出来たのが午前3時頃になった。ハッと気づいたら、今日はTBSの同期会だった。しかも私は幹事のひとり、結果として無断欠席となってしまった。もっとも私の仕事はつり銭を用意することだけだったが。同じ幹事ですべてを仕切ってくれた椋尾尚司氏に申し訳なし。お詫びのメールを打つ。

11月20日、大学を休講にしてもらって、15時から東京會舘で鶴見和子さんを偲ぶ会に出席。一昨日の失敗に懲り用心して行ったら、1時間前に着いてしまった。コーヒーを飲んで時間を過ごす。会場ではさまざまな人がさまざまな鶴見和子像を語った。ただ、「地方の時代」映像祭の審査委員長としての活動を壇上で語る人はなく、配られた経歴にも書かれていない。鶴見さんが地域ドキュメンタリーから得たものは大きかったはずだが、歴史の底に沈められてしまったような気がして寂しかった。鶴見和子さんはアカデミズムと出版の世界を超えた人だったのだが…。パーティで、絹村和夫さん、羽田澄子さん、大石芳野さん、坂元良江さん、放送文化基金の清水さんなどに会い、やっと私たちにとっての鶴見さんを少し語れたような気がしてホッとして帰る。いただいた「菜の花」の和菓子が絶品だった。DVD「鶴見和子短歌100選・『回生』から『花道』へ」を見ながら、ひとり、深夜の偲ぶ会。

11月21日、総合講座、きょうの上映は中京テレビの「大人の説明」、大脇ディレクター04年の秀作。6歳の少年が突然の交通事故死。被害者と加害者の出会い。原因を問いつめようとする取材者に次々と現われる壁、スリリングな展開で鋭く問題を突きつけた。いくつもの賞を受けた作品で、見るのは十回を超えているが、あらためて感動。私たちの快適な文明生活が何によって支えられているのか?を問われること、中京テレビが早くから制作に力を注ぎ、地方局の中で抜群の自社製作比率を持った局であることなど、秀作の生まれる背景を語った。

終了後、表参道へ急行し会食。おいしい白ワインとフランス料理で優雅な時間を過ごした。ご馳走してくれたNさんに感謝。

                                       

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2006年11月14日 (火)

「葬送の海」(南海放送制作)

11月14日、朝久し振りにオルタスジャパンの星野ディレクターから電話。クリーニング店に寄ってから東京国際大学へ。途中、川越駅でそばの昼食。

1450分から「総合講座」の授業。毎回、地方局制作のドキュメンタリーをフルに見て、私が若干の解説をする形式で、学生だけではなく広く市民にも公開されている。今日は南海放送制作の「葬送の海」70分、1954年31日のビキニ環礁におけるアメリカの水爆「ブラボー」実験で日本の第五福竜丸が被爆した事件を扱った重いドキュメンタリーである。  

この時被爆したのは第五福竜丸だけではなかった。900を越えるマグロ漁船が被爆、その三分の一は四国からの出港であった。膨大な量のマグロなどが破棄された。乗組員の大多数は被爆の後遺症で亡くなっている。彼らは被爆手帳も持たず、アメリカから支払われた筈の補償金も受け取っていない人が多い。許容量100に対し、何千何万とガイガー検査機が示したのに、放射能検査は何故かある日打ち切られた。「人体に大きな影響はない」という厚生省発表と共に。これらの知られざる実体を調査する人たちがいる。番組は同行しながら、時には独自の調査報道で、恐ろしい現実を突きつけた。04年「地方の時代」映像祭のグランプリ受賞作品「わしも゛死の海゛におった」の続編である。

ここでは、さらに衝撃的な事実が語られる。長崎で被爆した青年が、高知に移り住み、マグロ漁船に乗り込んでビキニで被爆した。青年は絶望して自殺する。原爆と水爆の両方の被爆体験を持ったひとがいたことが信じられない。13人ぐらいいるらしい。

大西プロデューサーと伊東ディレクターの長期の粘り強い取材に感服する。

一方、原水爆禁止の運動は、分裂して醜い主導権争い。毎年ふたつの大会が開かれていた。しかし17年後、決定的な転回点を迎える。被爆したマーシャル群島の人たちが参加したのだ。「唯一の被爆国日本」という思い込みが崩れた瞬間だった。

2001年にNHKで放送したドキュメンタリー「トリニティの記憶」の取材時に出会った被爆した先住民の人たちのことなどを交えて話をしたがあっという間に時間になってしまった。

帰路、家の近所で自転車を買い換え、新しい自転車に乗って帰宅。久し振りに乗ったが、運動神経の衰えをさらに感じた。注意せねば。サッカー日韓戦を見る。1-1の引き分け。夕食後、オールドパーの水割りを飲みながら明日の講義の下準備を少し。

      

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2006年11月12日 (日)

バレンボイムのピアノ

119日、日大芸術学部で「テレビ演出論」、「散華」の演出について、ワイズマンの「動物園」や「ベルファスト・メイン」「脳死」などの作品を例にナレーションや伴奏音楽のない演出について。終了時間が過ぎているのに気づかず、学生に注意されてやめる。帰宅して、絓秀美「1968年」(ちくま新書)を読む。

1110日、14時、参宮橋のトゥデイ&トゥモロウの事務所へ、コピー機の定期点検に立ち会う。部品交換の必要ありとのことで、来週また。15時、田原茂行さん来訪、「テレビドキュメンタリー資料集」を刊行するとのこと。川越開催4年分のパンフレットと音好宏氏の原稿コピーを差し上げる。20周年記念パンフの数ページをコピー。駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながらしばし雑談。1745分、銀座でおおくら会の藤田さんと待ち合わせてイタリア料理。辛口の白ワインを1本空けた。おおくら会へ寄って帰る。

1111日、久し振りの休日だが、一日中、雨。夜、世界女子バレーの「日本対セルビアモンテネグロ」戦をテレビ観戦。これまで全勝の相手にフルセットの末日本が勝つ。録画とわかっていても熱戦に惹かれる。23時から25時までハイビジョンで、ダニエル・バレンボイムのべートーべン・ピアノソナタを見る。昨年ベルリンの歌劇場で録画されたもの。ニューヨーク、パリの公共放送とNHKの共同制作。作品57「熱情」が彼らしくて良かったが、フランス人ディレクターのカメラワークがなかなか美しかった。「Out Of Place」のラストシーンを思い出す。

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2006年11月 9日 (木)

ワイズマン「動物園」

111月8日、3時限は休講、4時限は大学院の修士論文指導。中国人留学生と日中問題とメディアの問題で話す。5時限は大学院の授業、映像の仮構性について。ピューリッツア賞を受賞し、後に自殺したケビン・カーターの写真「ハゲワシと少女」を素材に、現場に同行した親友の証言、あの少女の傍らには実は母親がいたが、フレームには入っていないという事実、さらに、「報道か人命か」の議論のなかでソマリアにおける米兵の虐殺死体が車にひきまわされるもう一枚の受賞写真の話題が消えたことなど、論争をあおったメディアは結果としてメディア自身の責任から逃げたことについて話した。アメリカで「カメラマンはなぜ死んだか」というドキュメンタリーが昨年つくられ、アカデミーの候補になったことも。実は私が自分でつくりたくてひそかに暖めていた企画だったのだが…。やはり「゛そのうちに゛はないこと」という萩元晴彦の至言は生きている。

 19時に大学を出て、T&Tの事務所に寄って郵便物や資料整理をして、帰宅は24時近かった。2530分からフレデリック・ワイズマンの「動物園」をWOWOWで放送していたので録画するつもりだったが結局最後まで見てしまった。ナレーションのない2時間余を、しかも再見でも、まったく飽きさせないのはやはり凄いものがある。長い時間をかけて、現場収録の<音>で<時間>を紡ぐ<編集>に秘密がありそうだ。4時30分、床に入る。

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2006年11月 8日 (水)

夜よ、こんにちは

116日、夕方から三軒茶屋で映画をみる。スピルバークの「ミュンヘン」とマルコ・ベロッキオの「夜よ、こんにちは」。何故かテロリストを描いた2本立て、シニア割引で800円。定員は100名くらいだろうか、観客は私を含めて6人だった。

スピルバーク作品は1972年のミュンヘン・オリンピックの選手村で起きた「黒い九月」によるイスラエル選手団襲撃事件、11人の生存犯のうち9人を殺害する報復の暗殺チームの物語。仕上げのテクニックは目につくが深みなく、単なるスリラーものと大差なし。

ベロッキオ作品は、1978年の「赤い旅団」によるモーロ首相誘拐殺害事件のテレビ中継とフィクションを交錯させながら描いた。ほとんどアップの表情で揺れ動く共犯女性の内面を表現した主演のマヤ・サンサと、モーロ首相を演じたロベルト・ヘルリッカの渋さが目立った。特に幻想の解放シーンがすばらしい。絶望と希望の入り混じったこんな歩きを演じられる俳優はそういない。

ベロッキオはベルトリッチの同期生だそうだが、これまで目立たなかった実力を発揮している。タイトルはアメリカの詩人エミリー・ディキンソンの詩「こんにちは、真夜中よ」からとったものらしい。

117日、13時、来年度の「地方の時代」映像祭開催の打ち合わせ。予定時間を越え、15時、日経の坪田さんとの約束に遅れる。坪田さんと同道した慶応大学大学院の高橋さんと。テレビマンユニオンの応接室をしばし借りた。「住民ディレクター」の現在と今後をめぐって、あるいは制作過程における「他者」との出会いの構造について、デジタル問題の基本の流れについてなど、あっと言う間に3時間が過ぎた。ものを創ることは、他者との出会いあるいは葛藤の連続である。住民ディレクターは、既存メディアを超える映像を生み出さない限り次のステップにいけないのではないか、などの私見を述べた。

帰路、いつものように隣の青山ブックセンター本店に寄り、新刊書3冊を買う。

「ドキュメンタリー映画は語る」、山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局編。映像祭の機関紙に連載されたものだが、未読のものを読みたかった。特に、松川八洲雄さん。大学の先輩ではあるのだが面識はなく、リクルート映像の江口さんが知り合いと聞いて紹介してもらい、一度だけ銀座で飲んだことがある。著書は貴重なドキュメンタリー論で、幾度も読み返したものだ。

「〇次元写真集」平田実、〇次元は60年代に活躍した前衛集団。私のTBS報道部時代のドキュメンタリー「クールトウキョウ」に出演してもらった。撮影中、チンドン屋を伴奏音楽としたハプニングの異様さに驚いた女優さんが失神した。

「夏の力動山」夏石鈴子、この手の本を買うのは珍しいが、先週読んだ書評に魅かれて読みたくなった。帰って早速読み始める。

*申し訳ありませんが、このブログでは、トラックバックを受け付けていません。広告等が多く事務処理上の理由からです。

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2006年11月 3日 (金)

MXテレビOB会

11月2日、1830分からMXテレビのOB会に出席。年1回の顔合わせ、懐かしい顔、思いだしたくもない顔、いろんな人に会う。MXには複雑な感情が渦巻いているが、昨年より少し人数が減ったようだ。

 このテレビ局の基本コンセプをはじめて考えたのは1990年のことだ。いろんな企業、団体から「新しいテレビ局をどのように考えたらいいか?」と聞きにくる人が続出した。やりとりしているうちに、キーポイントは21世紀型の新しい構想であること、郵政省(当時)と東京都の考え方が大きな要素なのに誰も確かめていないことがわかってきた。

 私の考えは、①地域に徹底的に立脚すること、②来るべきデジタル時代に適応した局にすること、③視聴率競争に参加しない独自の方法論を持ったテレビ局にすること、の3つが基本であった。その線で基本構想案を書いたのが91年である。それに最も強く賛意を表明してくれたのが郵政省の江川氏、団氏と東京都の吉岡氏だった。当時の鈴木知事も全面的に賛成だ、こういう局ができるなら都は毎年100億出してもいいとまでいってくれた。

 しかし、知事が85年に中曽根首相とのトップ会談で新局設立を合意したと都議会で発言してしまったことに郵政省幹部が強く反発、両者には話し合いの回路さえなかった。両者を結びつけることから私の基本構想の長い旅が始まった。4年後、ゼネラルプロデューサーとして私はMXテレビに迎えられ理想の実現に着手した。さまざまな妨害やいやがらせがあり、作業は困難を極めた。1年半で追われるように契約を解除し辞任した。それから10年、沈黙を守ってきたが、この間の経緯は詳細に記録してある。近く何らかのかたちでドキュメントを発表するつもりだ。

 終了後、銀座へ出て飲み直す。帰宅は午前3時に近かった。

11月3日、久し振りに息子が来て夕食。近所の焼肉屋へ行く。弁護士2年目を迎えている。「佐藤隆太×岡田義徳×塚本高史のTHE3名様」テレビ中継を見る。

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2006年11月 1日 (水)

サイード OUT OF PLACE

11月1日、1530分からTTC試写室で佐藤真監督「エドワード・サイード・OUT OF PLACE」(製作シグロ)の試写をみた。03年に逝去したサイードの「遠い場所の記憶・自伝」をベースにして、夫人や子供たちをはじめ関係者のインタビュー、パレスチナ、レバノン、イスラエルなどの現地で痕跡を追ったドキュメンタリー。2時間17分の長さを感じさせず面白かった。

 サイードに挑戦と聞いてその大胆さ(無謀さ?)に驚嘆したが、佐藤監督は自分にサイードを撮る資格があるか?と常に問いかけながら真摯に取り組んだ姿勢が画面から感じられて、流石と思った。カメラが美しいし、帰還権や一国二民族共生などのサイードの根幹に次第にしぼられていく編集は見事だった。ただ、著書「イスラム報道」に代表される報道メディアの問題への切り込みはやや期待に遠かった。スケジュールを急ぐ制作条件が惜しまれる。みすず書房から刊行された同名の書物はシナリオも採録されているがよくできている。これだけ丁寧でわかりやすいサイードの解説書はない。学生たちに勧めたいと思っている。

 試写室で偶然会った境真理子さんと食事。帰宅してWOWOWでドキュメンタリー「ヴァンダの部屋」を見る。

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OUT OF

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