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2006年10月25日 (水)

10月23,24日

10月23日、創立記念日とかで大学が休み。「DAYS JAPAN」の購読継続の申し込み、会合出欠の返事など、ワールドシリーズの中継をみながら。今日はデトロイト・タイガースが勝った。一勝一敗。日本シリーズと同じ状況だ。「地方の時代」映像祭の件で電話数件、有志によるNPO設立を選択肢のひとつとして考えたいと思っているのだが。やはり先立つものの工夫が先決だろう。26年の軌跡をまず記録する作業をと、川崎開催時や川越移転時の資料をいろいろひっくり返してみる。

 思えば、1981年の春、日大芸術学部の非常勤講師懇談会で、柳治郎さんと会ったのが映像祭とかかわる第一歩だった。乾杯が終わって、知人が何人もいたので、その輪へ加わろうと歩き出したとき、「村木さん」と声をかけられた。ふりむくと白髪のお年寄りが立っていて、「ちょっと、お話を」と有無を言わさぬ口調で言われた。柳さんと会った最初だった。「地方の時代」映像祭を始めたこと、今年から作品コンクールをやること、審査委員を頼みたいことを一気に言った。興味はある、後日、詳しく伺いたいと私は答えた。「では、明日」、柳さんらしい短兵急な二の矢だった。当時私はテレビマンユニオンの社長であった。自分の自由に出来る時間がそうある訳ではなかったが、勢いにおされて翌日の約束をした。「では明日」と言って、まるで用事はすんだ、ほかに興味はないという感じで柳さんはさっさと帰っていった。歓談の輪の中に入って、私はその後姿を見ていたのを覚えている。

 第一回の審査会は、鶴見和子さん、大島渚さん、岡本太郎さん、筑紫哲也さん、田原聡一郎さん、色川大吉さんなど、多士済々のメンバーだった。作品は面白くて夢中で見た。最終日、委員会は大混乱の記憶も今では笑い話のひとつだ。

それから10年、審査委員を務めた。プロデューサーをやることになったのは1992年のことだ。いろいろないきさつがあったが、別の機会に譲る。映像祭はさらに川越移転と、一見順調に見えて波乱万丈の軌跡だったといえよう。26年間のパンフレット全部を持っているのは多分もう私だけだろう。これを記録として残さなければ、と切に思う。

10月24日、16時からATP賞贈賞式典に出席。大学の総合講座は休みにさせてもらった。ATPとは、社団法人テレビ番組制作会社連盟。

 ATP賞を始めたのは1984年、ATP結成当初からやりたいと思っていたのだが、実現するまで2年かかった。82年3月、結成して最初に取り組んだのが制作費の問題、金額の多少よりも設定方法の不明朗さの是正だった。83年「制作費ハンドブック」完成。それは必然的に、著作権問題への取り組みとなる。勉強会や合宿を繰り返し主張鮮明な「ATP著作権ハンドブック」をつくったのが1985年、1年前にATP賞を始めた。作り手が選ぶ作り手の賞という最初のユニークなコンセプトだ。この二つが、86年の迅速な社団法人化へつながり、ATPの基礎ができたのである。当時の理事長・石川甫、浅野、武田両副理事長、小原事務局長はじめ一緒にがんばった何人かは鬼籍に入り、当時の事情を知る人も少なくなった。これも歪曲されないうちに記録しておかなければなるまい。

 いまやATP賞は業界最大のショウとなった。連盟発想者のひとりとして、設立を提起した者として嬉しいことではあるが、制作会社のポジションが難しい時代になってきたのも事実だ。<制作会社>の基礎デザインそのものの修正が必要な時を迎えつつあるのだ。

 贈賞式では、壇上で新人賞のプレゼンテーターを勤めた。ここ数年、役割が固定した感があるが、新人賞は、初めてディレクターをやった制作者の中から選ばれる。嬉しい役割で、光栄に思っている。パーテイは相変わらず盛大だった。松尾羊一氏、松前洋一氏とタクシーで豪徳寺の寿司屋「一」へ行く。雑談から実現してしまった小田急沿線住人の第一回飲み会となった。話題はころころ変わったが、談論風発、話は尽きなかった。続きは今度ということで、日本シリーズの結果を聞いて豪徳寺駅で解散。

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