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2006年5月19日 (金)

プロフィール

村木 良彦(むらき よしひこ)テレビジョン歴     2006年4月1日

(1)   1959年、ラジオ東京(現TBS・東京放送)へ入社。最初にかかわった番組は、入社10日目の皇太子美智子妃ご成婚パレード中継の下働きだった。

(2)   テレビ美術部で2ヶ月の研修を経て、テレビ演出部へ配属。実相寺昭雄、今野勉ら6人の演出部同期生でグループ「dA」をつくり、機関誌を発刊、論文やシナリオを書く。「dA」は職務上の呼称であるAD(アシスタント・ディレクター)を逆にし、dを小文字、Aを大文字にして価値転換をイメージしたもの。

(3)   月~金、昼の帯番組「今日の演芸」の演出助手、林家三平の初レギュラー番組であった。新人同士で親交を重ねる。ディレクターの吉井俊郎は徳川無声の弟子で巡業仲間の芸人育ちだった。夕方から連れまわされ、芸人たちとの付き合い方や酒の飲み方を教わる。毎日生放送だが、簡単な構成なので、配属された翌週から副調整室のディレクター席に座って番組の指揮をとる。

(4)   「竹田人形座の孫悟空」「西武プレゼント劇場」など多くの番組の演出助手をしながら多くの先輩に多くのことを学ぶ。なかでも「孫悟空」は脚本・吉永潤一、美術・有賀二郎、音楽・山下毅雄、演出・三輪俊道、人形・竹田人形座で隠れた名作シリーズだった。一本立ちする真船亭ADの後を引き継いだ。出演は七尾玲子、大山のぶ代、熊倉三夫、小原のり子、などの声優陣とよく遊んだ。日本で初めて青山にできたボーリング場へ通ったり、ハイキングへ出かけたり、スタッフキャストのチームワークは抜群。楽しい仕事だった。

(5)   1960年 円谷一演出の連続ドラマ「そんな時、私は」の演出助手。定時制高校へ通う3人の家庭それぞれのドラマを描く。脚本、長谷部慶次、光旗斥朗、堀江士朗、社会派ドラマをより先鋭にしようと若手俳優たちと議論を繰り返す。

1961年 円谷演出の連続ドラマ」「純愛シリーズ」の演出助手

1962年、円谷一演出のドラマ「煙の王様」の演出助手。芸術祭大賞受賞。その功績を認められて登板を許され、ドラマ「傷だらけの夜」を初演出。

1963年 ドラマ「てんとう虫だまし」「ある誕生日」「青春」「思い出」「夏の終わり」を演出。

秋から「正塚の婆さん」(大山勝美演出、芸術祭奨励賞)の演出助手を務める。

ADは鴨下信一、高橋一郎、実相寺昭雄、村木、久世光彦の5人。豪華メンバーであった。

 1964年 今野勉演出の「土曜と月曜のあいだ」(イタリア賞グランプリ受賞)の演出助手を務める。

 1965年、はじめての連続ドラマ「陽のあたる坂道」26回を演出。

1966年、報道局へ移り、ワイドニュースのディレクターを担当。芸術祭参加「あなたは…‥」を萩元晴彦と共同演出、奨励賞受賞。

1967年、テレビ報道部へ移り、テレビドキュメンタリーを連作。「現代の主役・釜本国茂とその観客の記録」「マスコミQ第一回・私は…(新宿篇)」「私は…(赤坂篇)」「わたしのツイギー」「フーテン・ピロ」「クール・トウキョウ」「われらの時代」「続われらの時代」「ハノイ、田英夫の証言」「私の火山」、その間、舞台「今日はトウキョウ」、映画「罠・第三話」などを演出。

 1968年、非現場への配転を萩元晴彦と共に拒否、直後に起こった成田事件、田英夫ニュースキャスター解任の両事件を含めて90日に及ぶ「TBS闘争」の発端であった。

1969年、配転先の非現場での1年余の空白に終止符を打つために退社を決意、同期の吉川正澄に話したところ、集団退社、プロダクション立ち上げ構想へ発展、設立計画書を書く。社名を「テレビマンユニオン」とした。TBS諏訪常務(当時)の理解を得て、同士を募り、設立へ。

1970年、TBSとのさまざまな折衝を経て、2月25日、テレビマンユニオンを創立。小さな事務所に集まった同士は25名であった。

1973年、役員の不祥事などがあり、組織改革の必要が生じ、代表制へ移行。萩元晴彦、今野勉と共に代表に就任、取締役となる。総務、経理などの内政を担当。

1975年、テレパック製作のドラマ「北都物語」17回を演出。秋から「世界の学校」26回をプロデュース、テレビマンユニオンはドキュメンタリードラマ「欧州から愛を込めて」の評判もあって、ようやく組織の基礎を固めつつあった。

1976年、代表取締役社長に就任。スペシャル番組を武器に多彩な番組制作に取り組む。3時間ドラマ・シリーズや西武ドラマスペシャル・シリーズ、あるいは美術、科学、歴史。などのジャンルでスペシャル番組を連発、

82年ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)を創立、84年から副理事長(86年、社団法人化、92年から理事長、95年から顧問、現在に至る)。

1984年、テレビマンユニオンの代表を辞し、非常勤の取締役へ。メディアの企画開発の拠点としてトゥデイ・アンド・トゥモロウを創立、代表取締役に就任。人材育成の私塾「メディアワークショップ」の設立に参加、87年まで代表取締役塾長を務める。89年「ハイビジョンマガジン」プロジェクトを組織し、総合プロデューサー。

80年から「地方の時代」映像祭の審査委員、92年からプロデューサー(現在に至る)

 89年、国会中継専門チャンネル「C-NET」を創立に参加、非常勤取締役に就任。97年からCSで放送開始、01年インターネット中継開始。(現在に至る)

94年から96年まで、東京メトロポリタンテレビのゼネラルプロデューサーとして、開局準備作業(番組編成、製作技術システム構築、報道記者育成など)を統括。

97年12月、「放送人の会」結成に参加。幹事の一員として「放送人グランプリ」などを担務。

2002、東京国際大学に招かれ国際関係学部教授に就任。「国際報道論」「メディア環境論」「報道表現演習」「メディア生態学」などの講座を担当、03年4月から同大大学院で「国際報道論研究」を担当。06年3月退職。非常勤講師として講座だけは継続して担当している。ほかに日大芸術学部放送学科で「テレビ演出論」を講義。

企画・制作・演出のテレビ番組、映像作品、CMなど多数。

主な演出作品、テレビドキュメンタリー「あなたは…‥」(TBS)「ハノイ、田英夫の証言」(TBS)、「トリニティの記憶」(NHK)、「北都物語」((YTV)、「ジキルとハイド」(フジテレビ)、「憎いあん畜生」(日本テレビ)、ほか。

主なプロデュース作品、「光は東方より、野口英世伝」(TBS)「望郷、日本初の第九交響曲」(フジテレビ)「ケースD」(テレビ朝日)などのスペシャルドラマ、「海は甦える」「獅子のごとく、森鴎外」などの3時間ドラマシリーズ(TBS)、「あめゆきさん」「スペイン子連れ留学」などの西武スペシャルドラマシリーズ(フジテレビ)、「世界の学校26回シリーズ」(朝日放送)、「私がつくった番組13回」(テレビ東京)、ほか。

著書、「お前はただの現在にすぎない」(共著、田畑書店)、「ぼくのテレビジョンあるいはテレビジョン自身の広告」(田畑書店)、「創造は組織する」(筑摩書房)、「反戦+テレビジョン」(共著、田畑書店)、「学校は生きている」(共著、ごま書房)ほか共著多数。

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2006年5月15日 (月)

5月14日、ATP-EXAMに出席

5月14日(日)、午前9時すぎ、昭和女子大へ。ATP-EXAMのテレビマンユニオン面談に出席。約350人と面談する。ここ3年ぐらい参加者の数は下降気味ということだが、テレビマンユニオンの面談希望者はそのなかで微増傾向にあるとか。一人5分ということだが、ついつい話を聴いてしまい私の班(入社5年目の森君と私)は顰蹙をかっていたらしい。18時頃終わって、10人ほどで三軒茶屋の店で軽く食事。ユニオンの若い人たちとこんな場をもつのは何年ぶりだろう。新鮮であった。

夜、琉球放送の「民謡で今日拝なびら」とt東北放送の「玉音放送60年目の夏」のふたつのラジオ番組を再び聴く。いずれも今年の「放送人グランプリ」の入賞作品だ。贈賞式は18日にせまっている。賞状の原稿を考える。疲れて途中でギブアップ。忙しい一日だった。

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2006年5月13日 (土)

5月12日、川崎アカデミーへ

5月12日、4月から毎週金曜日に始めた講座「ドキュメンタリーの<現在>を考える」で川崎の市民プラザへ。早くつきすぎたとコーヒーを飲んで一休みしてたら続々と人がやってくるのに驚いた。大学生より市民たちの方がはるかに学習意欲満々だ。10時半開始。

「あなたは…」 の制作について、複眼性、凝視性、仮構性などのテレビメディアの特性と

「作品づくり」よりはむしろ「プロセス」が大事と気がついたことなどを入り口に、ベトナム戦争後のマイケル・ディーバーやヒトラーを支えたヨーゼフ・ゲッペルスなどの話を交え、近代ジャーナリズムの規範の崩壊、「報道」の難しさ、神経系から植物系を含む総合的な情報流通システムへの移行の展望まで、あっという間の90分だった。

 帰路、放送人の会事務局へ。東北放送の木村さん、琉球放送の上原直彦さん、それぞえの受賞作テープを受け取って帰宅。

 大川永氏、TBSの金平氏らと電話で話す。夜、ラジオのテープを続けて聴く。

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2006年5月 4日 (木)

5月4日、加納一行氏逝去

テレビマンユニオンの鶴野鉄太郎から電話連絡、昨日の夕方だった。

加納一行氏が逝去したとのこと。

2,3、日前にふと彼のことを思ったのは前兆だったのだろうか。チェルノブイュ20年のニュースをみていて、あの時のことを思い出していた。私はパリにいた。ATPがカンヌ見本市へ初めて店を出すのに立会い、その帰りだxった。パリで飛行機の乗り換えがあり、一泊した朝のニュースで原発最大の事故を知ぅた。帰りの飛行機はその上空がルートである。私たちは飛行機を変えるべきか否かを相談していた。旅行代理店にも情報はなく、頼りはCNNのニュースだけだった。そのなかのひとりに加納がいた。結論は出ず、夕方までいったん解散した。その間に、彼は今野勉らと買い物へ出かけたrらしい。オペラ座の前あたりでジプシーの少年団に襲われた。現金とパスポートを盗られて、夕方元気なく現れた。TP

加納一行は1965年、私がTBSで連続テレビドラマ「陽のあたる坂道」を演出したときに、はじめてテレビ制作現場でADの仕事をした。まだ学生だったと記憶している。リーダー係と弁当配り、車両手配などが主な仕事だった。スタッフの怒鳴られながら、いつもニコニコしてよく動いていた。1970年、私がTBSをやめるときには製作現場でなくてはならない

存在になって活躍していた。テレビマンユニオンへも参加したいと申し出てきた。ユニオンのあと、オフィスツーワンへ移籍した。かかさず年賀状をくれ、ATP賞のパーティなどでいつもまっさきに声をかけてくれた。あの笑顔がなつかしい。

葬儀には献花の手配をしたが、目下の体調ではいけそうもない。ひとり、冥福を祈るしかないのが残念だ。

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2006年5月 1日 (月)

4月30日、ガルブレイス逝去

水俣病公認か50年、式典の中継をテレビでみた。

小池環境大臣の顔も見えたが、あらためて「国家」を考えさせられた。

ガルブレイス教授逝去。「不確実性の時代」をテレビセミナーで見たのは30年ぐらい前だったろうか。キリン一社提供でTBSの深夜。一週間通して夢中でみた。BBCの制作」だったが、こんなテレビ番組が存在することに興奮した。それから日本でも知的エンターテインメント番組の時代がやってきた。きっかけをつくってくれたのはガルブレイスさんだった。

学界ではめぐまれなかったらしいが、功績は大きい。冥福。

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